移住したくなったら

秘境の地で数百年つづく「祭」が村を変える。関係人口が紡ぐ村の未来

秘境の地で数百年つづく「祭」が村を変える。関係人口が紡ぐ村の未来

皆さんは、自分の住んでいる地域のお祭りに参加したことはありますか?

移り変わる時代の中で、次の世代へと代々続いてきた祭りは、その土地のコミュニティや文化を形成する上で大切な役割を担ってきました。

しかし、現代において人口減少や高齢化により、祭りの文化は徐々にたち消えていっています。

いかに文化を受け継ぎ続けるか。伝統を絶やさないために、各地域で様々な工夫が行われています。

南信州の祭り文化は、ユネスコの無形文化遺産に選ばれるなど、日本を代表する伝統芸能の一つ。天龍村では、村の外から村と関わる「関係人口」との交流を通して、祭りを受け継ぐ挑戦が始まりました。

高齢化率はなんと全国2位(※2018年時点)。地域住民の60%が高齢者に当たります。コンビニも信号機もなく、東京から車で約5時間の秘境の村に、東京を中心に村外から若者たちが集まり、祭りの継承に携わっているのです。

全国の中でも最先端な「祭りと関係人口」を絡めた取り組みが実現した背景や、受け入れる側と関わる側、それぞれの思いを聞きました。

話を聞いた人
豊村由香理さん(左)
2019年に「信州つなぐラボ」に参加し、東京から天龍村に関わり始める。担い手不足により途絶えてしまった天龍村の夏のお祭り(向方のかけ踊り)を復活するプロセスで活躍。

村松 久一さん(右)
天龍村で曾祖父の代から林業を営む。国の重要無形民俗文化財に指定されている天龍村の霜月神楽の一つである「向方( むかがた)お潔め祭り」にも関わり、天龍村の文化を後世に受け継ごうと尽力している。

移住者によって始まった、氏神への奉納のための祭り

ーーまずは、天龍村のお祭りについて教えて下さい。

久一さん 
天龍村には「坂部の冬祭り」、「向方のお潔め祭り」、「大河内の池大神社の例祭」と呼ばれる3つの祭りがあります。昭和53年に、これら3つがまとまって「天龍村の霜月神楽」として国の重要無形民俗文化財に指定されました。私は「向方のお潔め祭り」の担い手です。

天龍村の向方地域は、600〜700年ほど前に三重県の伊勢の方から山を越えて移住してきた人たちによってできた地域です。伊勢では天照大神を祀っていましたから、長野にやってきてからも彼らの氏神様である天照大神に舞を奉納していたんです。それが「霜月神楽」の起源だと言われています。


ーー奉納のための舞だったのですね。どんな特徴があるのでしょうか。

由香理さん
どのお祭りも、1月の一夜を通し、「湯立て」と「舞」が繰り返されます。窯を置いてお湯を炊き、その周りで舞を行って神様をおもてなしするんです。冬が春になるころ、太陽の光が伸びてくる時期に身を清めて一年間の生まれ変わりをお祈りする意味もあるようです。
久一さん
「お祭り」と聞いてみなさんが想像するような、ワッと盛り上がるお祭りではないんです。儀式的な要素が強く、私も祭りを受け継いで50年ほどになりますが、言ってしまえば面白くない(笑)。とにかく、何をしているのかよくわからないし、難しい。「なんでこんな面倒くさいお祭りを代々続けてきたんだろう?」と不思議に思うくらいでね。


ーーゆかりさんが天龍村のお祭りに関わるようになったきっかけは?

由香理さん
2019年から「信州つなぐラボ」に参加したことが一番最初のきっかけです。「信州つなぐラボ」は、都市部と長野の山村地域をつなぎ、関係人口を増やす取り組みです。私はもともとお祭りの文化が好きだったので、天龍村に滞在していた際に舞の練習を見学させてもらったんです。

その時、「やってみる?」と声をかけていただいて。気づいたら一緒にやることになっていましたね。

ーー「祭りを継承しよう!」と意気込んでというよりは、自然な流れで。

由香理さん
はい。天龍村の人たちも、「せっかくいるならやってみたら?」くらいの軽いノリで受け入れてくださいました。私のように「信州つなぐラボ」経由や、お祭りが好きで村の外から自然と参加してきた若い人たちもいて。みんな無理なく一緒にお祭りに参加している感覚でした。

「閉じた祭り」から「開いた祭り」へ。外の人を受け入れるようになった経緯

ーー「お祭り」と聞くと地元の人のもののように思えるのですが、村の外の若い人も受け入れているんですね。

久一さん
実は、向方のお祭りは元々すごく厳しいものだったんです。代々続く宮人(みょうど)制度というものがあり、宮人(みょうど)の人たちによってしっかりと管理されてきたお祭りでした。

ーー宮人とは?

久一さん
この地域の中で代々神事に携わり、祭りに奉仕してきた人たちのことです。昭和40年くらいまでは、宮人制度の中で祭りが守られてきたのですが、宮人の人たちがあんまりにも厳しいことを言うものだから、地域の人たちが、「そこまで言うなら俺たちはもうやらない」とそっぽを向いたことがあるんです。


ーー当時はそれだけ厳しくお祭りを行なっていたんですね

久一さん
そこから、宮人の人たちだけで祭りを守っていく流れが何年も続いたんです。ほかに楽しみが少なかった地域ですから、お祭りをやるといえばそれなりに地域の人が集まりはするのですが、一緒に協力してやるような雰囲気ではなくて。

そんな風に地域の人と祭りが離れた状態が続くうちに、宮人の人たちが困り果て、昭和47年には一度「もう祭りをやめよう」となってしまいました。

ーー久一さんが祭りを継承したのはその頃ですか?

久一さん
はい。当時はまだ20代でした。このまま村のお祭りがなくなってしまうのは寂しく、同級生と二人で「もう一度祭りを盛り上げよう」と一生懸命地域の人たちを説得したんです。そして、村のみんなと話し合い、宮人制度を廃止して誰でも参加できるお祭りになったんですよ。

ーー祭りが外に開かれるようになったのは、久一さんの呼びかけがあったからだったのですね。

久一さん
そこから何年かはお祭りが盛り上がったんですが、だんだん私たちも歳を重ねるにつれて、お祭りを続けることが体力的にきつくなってきまして。世代交代していく中で、「こんな面倒くさいお祭りはイヤだ」と言う人も現れちゃってね。なかなかいろいろありましたよ。

かつて私たちに舞を教えてくれた先輩たちが、どんどん引退してこの世を去っていく。これからどうしようかなと考えて、さらに「来る者拒まず去る者追わず」な形にしようと「保存会」から「芸能部」という枠組みに作り直したんです。

ーー「保存会」と「芸能部」の違いは?

久一さん
宮人制度や保存会は、祭礼での神への忠誠心と強制力が強い組織でした。一方、芸能部は祭礼における芸能を担う組織です。祭りの参加者へ一段ハードルを下げました。とはいえ、教えるときは厳しいことを言いますがね。

でも、とにかくざっくばらんに開いた形を目指しました。村の学校に赴任してきた先生ですとか、いろんな形で村の外から来られた方をみんな巻き込んでね。ただ、仕事の関係で来た方はまた次の異動があるからなかなか定着しない。そんな中、10年ほど前に東京から「僕も舞を踊りたい」と天龍村にやってきた方がいたんです。
地域の子どもたちにも祭りの伝承をしている

ーー今でこそ「関係人口」という言葉が世の中に出てきましたが、当時からそんな方がいらしたんですね。

久一さん
なかなかユニークな方でね。「舞わせてくれませんか」と手紙までくれたんですよ。私たちも「いいよいいよ」と受け入れて。完全に村の外からフリーで参加してくれたのは彼が初めてですね。今でも毎年祭りに参加してくれるんですよ。

炭窯の火の前で個人練習をしていた過去。現在はスマホの動画を見ながら鍛錬を

ーー天龍村が「つなぐラボ」に参加する前から、村の外の人を受け入れる流れができていたんですね。「お祭り」というと、地域によっては今も男性文化が強く残っている部分があると思うのですが、由香理さんのように女性の参加者を受け入れるに当たっては問題はなかったですか?

久一さん
 「つなぐラボ」以前から、男女問わず地域の小中学生に舞を教えていたので、「女性はダメ」という考えは私の中にはなかったですね。ただ、「地域の方はどう思うだろう」という不安はありました。

でも、せっかく若い人たちが「舞ってみたい」というのなら練習ぐらいはいいだろうと。そんな軽い気持ちで受け入れていたら、みなさんの舞が上手だったんですよ。由香理さんのようにお祭り好きな方もいれば、ダンスをされている方もいて。飲み込みも早いし、ちょっとびっくりしちゃってね。

ーー「練習ぐらいはいいか」のはずが。

久一さん
そうなんです。由香理さんも含めて女性4人で舞っていただいた時に、私や昔から指導者をしている村の人間の目から見ても、「おいなんだ、上手いじゃないか!」と評価が高くなっちゃってね。「もともとは男の舞だったけれど、女性が舞うとまた違った雰囲気が出てきていいんじゃないか」となったんです。


ーー性別ではなく、一生懸命に向方の舞を舞ってくれる人かどうかを重視しようという流れになった。由香理さんは2020年のお祭りが初めての参加となったわけですが、舞の練習はいかがでしたか?

由香理さん
私たちは天龍村に住んでいるわけではないので、全体の練習自体は12月に行われた2泊3日の合宿のみでした。そこでギュッと基本を覚えて、あとはそれぞれが自宅で動画を見ながら個人練習を行いました。

ーー久一さんや村の方々は、若い人が動画を見ながら個人で練習するスタイルについてはどう感じていたのですか?

久一さん
私たちの先輩の世代の頃から、個人練習をするという文化はあったようです。当時は、村で炭を作っていてね。炭窯に火をつけたら、炭を焼いている間はずっと時間がある。窯の火の前で、延々と個人で舞っていたようですよ。

それぞれが個人で練習をして、ある程度舞えるようになったら集まって舞を組み合わせ、細かい調整をしていく。その形は昔も今も変わらないですね。

ーー個人の鍛錬があってこその舞だからこそ、村の外の人でも気持ちさえあれば参加できると。

久一さん
ひとりひとりの舞が完成してから、みんなの舞を合わせて祭りができていく。向方のお祭りは、人様に見せるためのものではなくて神様にお祈りするためのものだから、誰よりもまず自分が納得できる舞に仕上げることが大切なんです。そうすると、結果として見る人にとってもすごい舞になる。自分自身を磨くようなお祭りですね。

言葉を介さなくても、舞を通じて人と繋がれることが祭りの魅力

ーー由香理さんは元々お祭りがお好きだとおっしゃっていましたが、いわゆる盆踊りのように気軽に参加できるお祭りもある中で、厳しい練習が必要なお祭りに参加してみた感想はいかがでしたか?

由香理さん
見る側としてのお祭りも好きですが、それだと演者の方々と対等になれないんです。フラッと参加して楽しめる盆踊りもよいですが、天龍村のお祭りのように、自分が作る側になった方がより面白いと感じていますね。とはいえ、最初は「私でいいんですか?じゃあやってみます」くらいの気持ちでした。
久一さん
由香理さんは、最初はあんまり積極的でなかったかもしれないね。「自分にできるかな?」という遠慮の気持ちが舞いに滲んでいた。練習中、すごく厳しいこと言ったこともあります。「この子は大丈夫かな?」と思いつつ見ていたら、すごく真剣にやるようになった。自信がついてきてからは、本当に上手になって。お祭り本番では、難しい舞いもやってもらいました。

「向方のお潔め祭り」は、練習がとにかく厳しいんです。舞手の「とにかく舞いたい」という気持ちがないとできない。練習を重ね、「自分の今まで歩んできた人生をそのまま出す」ぐらいの気持ちで披露するんです。そうすれば、素晴らしい舞ができる。
お祭りの練習に合わせて地域内外の人で交流する様子

ーー久一さんのように地元の人ではない由香理さんが、厳しい練習を経てそれでも祭りに関わり続けているのは、どんな魅力を感じているからですか?

由香理さん
言語以外のコミュニケーションによって、お祭りが出来上がっていくのがすごく面白いんです。久一さんのように歳の離れた方とでも、舞を通じて繋がることができる。そういう世界観は、やっぱり東京にいると得られないものなので、コミュニケーションの可能性を感じています。「舞いたい」というより、祭りを通じたコミュニケーションを体感したくて続けていますね。
久一さん
私がよく舞手の皆さんに言うのは「距離感を保つこと」。べったり張り付いたら絶対に駄目だし、離れすぎても駄目だし、誰か一人が一瞬でも舞を止めてしまうと、全体が崩れてしまうくらい本当に細かい。だからこそ、舞を通して、人との距離感をうまく測る方法を勉強できます。
由香理さん
久一さんはよく、「生きていく上での哲学が向方の舞に入っている」と仰っていて。言葉で言われてもわからないですが、自分の体で舞を覚えていくうちに体感として理解できる。だからこそ、これだけ長い間形を変えずに続いてきたお祭りなんだと思います。

やめるのは簡単。でも一度途絶えたものは元に戻らない。未来の可能性を信じて次へ繋げていきたい

ーー今は、舞手の方は何人ぐらいいらっしゃるのですか?

久一さん 
去年の時点で、私も含めて村の中でずっと舞を続けてきた人間はほぼいなくなってしまい、今回の祭りを機に見事に若手に切り替わったような状態です。

本当は、私たちが習ったように歴代の先輩がひとり入って、一番を務めながらほかの人たちを引っ張っていければさらに良い舞ができる。ですが、ほぼ新しい人たちだけでやってもらう形になってしまったのは、少し残念ではあります。


ーー久一さんは、今後はどのように祭りを受け継いでいきたいと考えていますか?

久一さん
先頭に立って引っ張る人を育てて、次に引き継ぎたいですね。ずっと私がやっていてもいいんですが、それでは後に続かない。できるだけ若い人たちに託していく形を取っていきたいです。


ーー由香理さんは今後、天龍村とはどんな関係性を築いていきたいですか?

由香理さん 
今、天龍村には私のように外から通っている人たちが増えつつあるんです。「みんなで協力して、村のためにできることをやりましょう」という話し合いも定期的に行っているので、外の人同士の横のつながりをちゃんと作っていきたいですね。

もちろん自分の生活もあるし、「ここまでしかできません」という限度はそれぞれにある。その中でも、みんな天龍村への思いを持って関わっている人たちなので、自分にできることをちゃんとやっていこうとみんな思っています。


ーー久一さんは、今後由香理さんのような「関係人口」となる人たちをどう受け入れていきたいですか?

久一さん
考えているのは、祭りは舞だけで成り立つものではないということです。舞だけが受け継がれても、村での祭りの維持ができないと続けていけない。村の中の人間は高齢化が進んでいて、仕事すらままならない状態になっている人もいる。その中で、どう村の外の若い人たちと祭りを続けていけるかが課題ですね。

やっぱり、「祭りがここにある」ということは、「ここに住んでいてなんぼ」という部分もあるんです。祭りの当日だけ外から参加してもらうのはもちろんありがたいけれども、ここに住んで地域の産業に携わりつつ、お祭りもやるのが本来の姿ですから、そこに対する葛藤はあります。いずれは移住者が増えて、「地域で生きていく」上で祭りがあるようになっていけば一番嬉しいかな。


ーーポジティブに捉えれば、新しい人の動きが生まれたからこそ出てきた悩みですね。

久一さん
そうですね。「このままでは祭りが途絶えてしまう」と悩んでいた頃からしたら、今の状態を想像することはできませんでした。とにかく、やめることは簡単です。でも、一度途絶えてしまったことを復活させるのは不可能に近い。だったら、次の展開への可能性を期待して、どれだけ細い糸でも次世代へ繋げていきたいですね。