2024.03.29
転職しない、古民家に住まない、東京を捨てない。ノリで来てなりゆきで住む「スナフキン型移住のすすめ」
移住の形は人それぞれ。自然の近くで土に触れる暮らしがあれば、駅チカの賃貸住宅に住みながら週末におもいきりアウトドアをたのしむ人もいて、まさに十人十色の長野移住生活があります。
今回の語り手は、週3会社員&フリーライターの月岡ツキさん。
新卒で大手IT企業に入社後、webのメディア編集や番組企画制作を経験した後に転職、新型コロナの流行をきっかけに地元である長野県に移住(Uターン)しました。
月岡さんの唱える「東京を捨てない」移住とはどのような暮らしなのか、月岡さんの長野移住にまつわるエッセイをお届けします。
コロナ禍がおさまるまでのつもりが……
東京を離れて3年が経った。「私、長野に移住したんですよ」という話をすると、「いいなあ」の次に「よく決断したね」と言われる。
東京を捨てて地方に移住、多少の不便はあるものの心も体も豊かな暮らし……という、いわゆる「地方移住イメージ」を思い浮かべると、たしかに移住とは穏やかな暮らしと引き換えにいろんなものを切り捨てるような、大きな決断が必要な行為に思える。
しかし、私はとくに「決断」というものをしていないことに気づいた。東京を離れてからこれまでを振り返ってみても、とくに何かを捨てたり、諦めたりした実感はない。なんとなく、流れで、気づいたら、ここに3年も暮らしている。
私はもともと長野県の出身で、大学進学を機に上京して以来、10年ほど首都圏で一人暮らしをしていた。そのまま数多いる「地方出身東京在住で仕事に励む独身女性」の一人として、東京ライフをどっこいエンジョイしてやろうかと思っていた矢先、コロナがやってきた。
コロナ禍の東京の単身者の絶望感といったらなかった。仕事も生活も睡眠も、すべてが狭いワンルームに閉じ込められてしまい、鍛えられた東京独身女子のメンタルも打ち砕かれた。朝起きたらベッドの上に座ってPCを開き、夜まで仕事をしてまたそこで眠る。同僚や友だちにも会えない。そんな生活が一年ほど続いたころ、孤独や感染への恐怖にとうとう耐えきれなくなってしまった。
パンデミックがおさまるまでの間は長野の実家からリモートワークをすることにして、借りていた世田谷区のマンションを引き払った。そのうち東京に戻るつもりで、大きな家具家電は友人宅の空き部屋に置かせてもらい、スーツケースひとつで長野に帰省したのだった。
そしていざ長野でリモートワークを始めてみると、これがびっくり。困ることはほぼない。コロナ禍以降、私の働くIT業界はリモート勤務が主流になっていたので、そもそも社内メンバーの誰がどこからミーティングに出ているのかもわからなくなったし、出社が必要になっても、朝すこし早めに家を出ればなんら問題ないのだった。
そもそも「長野」と聞くと山や温泉、スキー場のイメージがあって、「都心からすごく離れた田舎」を想像するかもしれない。だが、当時働いていた会社の最寄り駅であるJR四ツ谷駅からJR長野駅までは、在来線と新幹線を乗り継いでも2時間弱である。四ツ谷駅から千葉の木更津駅まで電車で行くのと同じくらいの所要時間のため、もはや移住というより郊外に引っ越したくらいの感覚なのだ。
長野県内も広いので一概には言えないが、北陸新幹線が止まる駅からであれば、関東近郊から通勤するのとほぼ同じくらいの心理的距離で行き来できるのである。これを遠いと思うか近いと思うかはその人次第なのだが、私はもうすっかり慣れてしまったので、思い立ったその日に行って帰ってくることもある。
新幹線代は往復で1.2〜1.5万円ほどだが、仕事であれば経費で精算できるだろうし、プライベートだとしても月1、2回なら許容範囲だと思っている。都内で暮らしていた頃のマンションの家賃を考えれば、長野暮らしでの固定費に交通費が数万円上乗せされたとしても、トータルでの生活費は安くなっている。
こうして「あ、これいけるわ。長野でいいわ」と気づいた私は、友人宅に預けていた荷物を実家の物置に運び込み、住民票も移して、晴れて再び長野県民になった。
余白から生まれる自由とチャンス
移住のための転職もせず、古民家をリノベして住むこともせず、なりゆきで始まった長野での暮らし。すっかり馴染んでしまった結果、長野に住むいまの夫と出会い、結婚までしてしまった。仕事はその後転職したけれど、引き続きフルリモート可能な東京の企業を選んだので、働き方はほぼ変わっていない。結婚して引っ越した先も、北陸新幹線が停まる上田駅が最寄りだ。
正直、「東京から離れてしまっては、仕事のチャンスが減るのでは……?」と思っていた。チャンスというのは人が集まるところに多く転がっていて、そういう場所に身を置いたほうがキャリア的には良いのではないかと。
実際にはそういう側面もあるのだろうけれど、私の場合はなんだかんだ長野に来てから仕事が好転したと感じている。転職して働き方に余裕ができたおかげでもあるけれど、長野で暮らしはじめたことで、明らかにインプットとアウトプットの時間が増えたのが大きい。
都心に住んでいたら飲み会に呼ばれたり、本当は行かなくてもよさそうなイベントに「行っといたほうが良いのでは」くらいの温度感でも顔を出したりして、時間を取られていた。けれど、今はほとんどそういったものに行かなくなった。最初こそ「東京で、みんな楽しんでいるのかな……」と寂しく思ったこともあったものの、空いた時間で読書や映画鑑賞の量を増やし、副業でやっているライターとしての仕事やポッドキャストでの発信がたくさんできるようになった。
その結果、新しい仕事や、やってみたかった仕事が舞い込んでくるようになり、東京にいた頃よりも確実に、やりたかった類の仕事が増えた。
何かを捨てないと新しいものは入ってこないというのは本当だと思う。
落ち着いてものごとを考える時間が取れるようになったおかげで、結果的にアウトプットの質と量を上げられている気がする。
これは単に私の性格の問題なのだけど、東京にいたときは、さまざまなものへのアクセスがよすぎたうえ、同じ業界の人たちも近くにいすぎて、つい自分と比べてしまっては、あれもこれもやらなくちゃと気ばかり焦っていた。一見するとチャンスがたくさん転がっているように思える環境だったけれど、ゆっくり考えたり行動を起こしたりするには人も情報も多すぎるのだ。
ただでさえ人と比べすぎてしまう時代、少し人と物理的に距離を取って、情報をあえて見ないようにすることで、むしろ自由になれるのかもしれない。
普段は人にも物にも余白がある静かな場所で仕事をして、本当に行きたい場所や会いたい人、やりたい仕事がある時にだけ都内に出る。そんな生活スタイルのできるちょうどいい位置が、長野なのだと思う。
こんなふうに、「ノリ」で来て「なりゆき」で定住するスタイルの移住ができるのは独身者の特権だ。リュック一つでムーミン谷にやってくるスナフキンみたいに。
子どもや家族がいたら、引っ越すにしても子どもの学校や習い事、友人関係や、家族の仕事はどうするとか、単身者よりも考えなければならないことは多いだろう。しかし、独身でリモートワークが可能な仕事をしているなら、一度、首都圏から離れて住んでみるのを本気でおすすめする。
「地方」にも「東京」にも縛られない移住
冒頭に書いたように、「長野へ移住」と聞くと東京の暮らしを捨てて、脱サラ(死語?)して、古民家をセルフリノベして住み、山奥でカフェや蕎麦屋や農業を始めたりするイメージがあるかもしれないが、それらだけが移住の形ではない。もちろん、その暮らしに向けて事前に相当な下調べや準備を整えた人なら可能だろうが、簡単に選択できるものではないと思っている。(『おおかみこどもの雨と雪』は、移住のイメージをハードコアにしすぎてしまった側面が多少あるのではないだろうか……と個人的に思っている)
「この地に仕事も生活もすべて移して、骨を埋める」という思いで移住した人からしたら、私のような人間は地域への愛情が薄いと思われるのかもしれない。実際、私もこのまま長野に骨を埋めるかと聞かれたらわからない。
東京以外でも仕事を続けながら暮らせることを知ってしまったので、ひょっとしたらまた別の場所に行くかもしれないし、このまま長野に居続けるかもしれない。
しかし、良くも悪くも土地に縛られすぎず、執着しすぎず、たいして覚悟も持たない私のような人間でも、ふらっとやってきて移住できてしまうのは、この長野という土地の懐の深さだとも思うのだ。実際、私みたいなタイプが浮いているかというとそうでもなく、似たような移住者も多くいて、友だちもできた。
スナフキンは、暖かい季節はムーミン谷で暮らし、冬になると南へ旅立つらしい。ムーミンたちと過ごすのも好きだけれど、彼は孤独な時間も愛しているのだ。
私は今ならスナフキンの気持ちがちょっとわかる。暮らす場所や人との距離を自分で選び、その時々で変える生き方は、一昔前は限られた人にしかできなかった。
しかし、私のような普通の会社員でもそれができるようになったことは、コロナ禍が残した数少ない恩恵だと思うのだ。
「地方」にも「東京」にも縛られず、自分が必要なときに必要な場所へ行く。自分の居たい場所を自分で選ぶ。そういう生き方ができるようになったとき、自分を今より少し頼もしく思えるはずだ。
そんなわけで、北陸新幹線でふらっとやってくる仲間を、この土地はいつもゆるやかに歓迎している。そんなに気負って来なくていい。リュック一つで、まずは一週間と思って来てみたら、いつの間にかあなたも「移住者」になっているかもしれない。