移住したくなったら

「松本のことは全然好きじゃない」藤原印刷三代目が語る、移住先で“居場所”をつくる方法

「松本のことは全然好きじゃない」藤原印刷三代目が語る、移住先で“居場所”をつくる方法

「この本をつくったのは、どこの印刷会社だろう?」
思わず奥付を見てしまうほど印象的な本に、出会ったことはありませんか?

美しい印刷に、凝った仕様。めくるたびに感じる喜びや驚きは、紙の本ならでは。

そんな本を多数担当し、「どんなユニークな要望にも真摯に対応してくれる」とクリエイターの間で評判なのが、長野・松本に本社を構える藤原印刷株式会社さんです。

今回お話をうかがったのは、その専務取締役を務める藤原隆充さん。

隆充さんは創業者の孫にあたり、3代目として2008年に藤原印刷に入社。現在は、東京支社にいる弟・章次さんとタッグを組みながら、松本の本社を束ねています。

家業を継いだとはいえ、実は、隆充さんの地元は東京・国立。東京で生まれ育ち、東京で就職したのち、松本に「移住者」としてやってきたのだそうです。

そんな隆充さんに松本についてのインタビューをお願いしたら、こんな言葉が返ってきました。

「僕は長野も松本も好きなわけでもないし、望んで来たわけでもありません。だから『長野良いっす!』『長野最高!』な内容にならないと思うのですが、それでもよければ取材を受けます」

その言葉を受けたとき「これこそリアルな声なのだろうな」と思いました。

移住は、自分の意思によるものだけではありません。仕事や家族の都合で、やむをえず引っ越したというケースも多くあるでしょう。

ただそんななかで隆充さんは、家業を継ぎつつ新しいことにチャレンジし、松本からたくさんの発信をし、たくさんの人とのつながりを築いている。

移住先という何もかも新しい、もっと言えば何もない「精神的な更地」である松本において、隆充さんはどのように暮らしてきたのか。どのような葛藤のもと、「居場所」をつくってきたのか。

家業である藤原印刷の軌跡とともにそんなことをうかがいたいなと思い、松本の本社を訪れました。

創業者であるおばあさまの写真に見守られながら、インタビューは始まりました。

話し手
藤原 隆充
1981年東京生まれ東京育ち。大学卒業後、東京のコンサルティング会社やベンチャー企業を経て、2008年に家業である「藤原印刷」に入社。印刷部、生産管理部を経て2020年から専務取締役を務める。
聞き手
土門 蘭
1985年広島生まれ、京都在住。小説・短歌などの文芸作品や、インタビュー記事の執筆を行う。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』。

女性タイピストが一代で急成長させた印刷会社

——藤原印刷さんは、65年前におばあさまが作られた会社なんですね。

はい。祖母は長野の奈川村(ながわむら ※現在の松本市)というところで、8人兄弟の一番上として生まれました。14歳で上京して、昼はタイピスト専門学校に通い、夜は働いて実家に仕送り。卒業後は松本に戻ってきて、タイピストとして企業に勤めていました。

当時、重工業系企業の取扱説明書などは、企業お抱えのタイピストが全部データ化していたんです。それを印刷会社が印刷するという流れで。そんななかで祖母がめきめき頭角を現して、「独立した方がいいんじゃないの」とお客さんに言われたようです。

——えっ、すごいですね。当時は女性創業者って珍しそうですけれど。

そう、びっくりですよね。それで1955年、「藤原タイプ社」と名乗ってタイプライター1台で創業しました。そうしたら、タイピングだけじゃなく印刷もできないかって声が結構あったそうで、自宅に印刷機を入れて印刷会社にしたんです。当時の印刷業界って成長産業で、たくさん仕事があったんですよね。

当時使われていたタイプライター

——そこから「藤原印刷」に。すごい行動力ですね。

その頃、長野県内でもいっぱい仕事があったらしいんですけど、当時の印刷業界で女性社長はめずらしくて。そんな会社に勢いがあるのを他社がよく思っていなくて、インクや紙の工場に圧力をかけて卸させないようにしていたらしいんですよね。

——ええー!

それで祖母がブチ切れて、自分はもっと広いところでチャレンジするんだと、東京支社をつくって。

——すごい!(笑)

それで、だんだんと東京で出版社の仕事をもらうようになったんです。東京で仕事をもらって、松本で印刷する、という流れができていった結果、一代で売り上げ13億、社員80名になるまで成長させたんです

——本当にパワフルな方ですね。

すごいですよね(笑)。ただ、魂が強い人は短命なのか、60歳で大病を患ってしまって。松本にこの建物を建ててからすぐに亡くなりました。やりきったんでしょうね。

「どこでも作れるものじゃなくて、ここでしか作れないものを作ろう」

——おばあさまが亡くなられたあとは、どなたが経営者に?

祖父が跡を継ぎました。この頃、僕の両親は東京支社を任されていて、国立の営業所の近くに家を買ってそこに住んでいました。そこで僕と弟が生まれたんです。

その後、父が社長、祖父が会長の時代を経て、母親が社長になりました。そのタイミングで僕も入社することになります。

——隆充さんが入られた頃の会社業務はどんな感じだったのでしょうか。

入社したのは12年前ですが、祖母がやっていたこととほとんど変わってなかったですね。出版社の仕事が9割で、モノクロ印刷一本。教育系とか税務系とか、固い内容のものがほとんどでした。

——入社したとき、「何か変えないと!」という思いはありましたか?

はじめは全然思ってなかったです。もともと僕は表参道のネット系ベンチャー企業で働いていたので、いきなり松本の印刷工場で機械をまわすことになって、とにかく慣れるために必死でした。

ただ弟が2年後に入ってきて、現場にも慣れてきた頃には、「このままでいいのかな」という漠然とした不安を感じるようになっていましたね。まあ、僕らが入る前から印刷業界は落ち目でしたし。

——インターネットが普及して以来、出版不況もずっと言われていましたもんね。

はい。幸いにも業績は安定していたけど、僕自身はどこか憤りを感じていました。業者扱いされることも少なくなくて。とにかく得意先の命令を聞いて、納期がキツくてもつべこべ言わずにやる、という風習はどうにかならないものかと思ってました。それで「家業じゃなければこの会社に入らないな」と感じたタイミングも何度かあって……。

——ああ……。

でも、そんなこと言ってもしかたない。楽しくできる可能性はあるんだから、いろいろチャレンジしようと思ったんです。それで弟が知り合いのデザイナーさんに話を聞いてみたんですよ。そうしたら「印刷会社から『できません』って言われることが多いんだよね」と言われて。それは難しいですねって断られてしまうと。

——はい、はい。

でも僕たちが印刷について学んだとき、「水と空気以外だったらなんでも印刷できる」って習ったんですよ。構造的にはできるはずなのに、どうしてみんなできないって言ってるのかなと不思議に思ったんです。もしかしたらここがチャンスかも、と。

——なるほど。それは、業界に入って間もない隆充さん兄弟だからこそ思えたことかもしれませんね。

それで2013年に、青山ファーマーズマーケットを運営する会社さんの季刊誌『NORAH』を印刷したのが転機になります。会社代表の黒崎さんと打ち合わせをしたとき、最初「1ページずつ全部ちがう紙を使いたい」って言われたんですよ。そのときは要望が斜め上過ぎてポカーンとしちゃったんですけど(笑)、ここで「無理です」って言ったら何にも変わらないなと思って

ただその仕様だとあり得ない価格になるから、16ページごとに紙を変えてコストを抑える話をしました。さらに、その16ページの順番を並べ変えて合計24パターンの本ができる仕様を提案したら「やろう!」ってなって。

——でも、現場から「そんなの無理」って言われませんでしたか?

めっちゃ言われましたよ(笑)。通常の4倍くらい時間かかりますしね。でも、現場のみんなも「やるしかねえな」と言ってくれて。

そしてできあがったら、お客さんにとても喜んでもらえたんです。手に取って読んでくれた方からも、SNSですごい反響があって。「これ作ったのどこだ?」って口コミが広がって、それ以来かなり問い合わせが増えました。「作り手がイメージしているものを、多少無理してでも作る」実績が、僕たちのこれからを拓いていくって、そのときすごく思いましたね。

土門さんが短歌を、寺田マユミさんがイラストを担当した歌集『100年後あなたもわたしもいない日に』(京都文鳥社)。「本文を丸や三角に型抜きしたい」という難しいオーダーに答えながら、藤原印刷が印刷を担当した

ーいまでは藤原さんと言えば「凝ったものも作ってくれるところ」というイメージが定着しています。それはその頃からスタートしたんですね。

ありがたいことです。それ以来、現場も少しずつ意識が変わっていきました。最初は面倒だなって思っていたみたいだけど、褒められると自然といい循環が生まれるんです。「どこでも作れるものじゃなくて、ここでしか作れないものを作ろう」という風に、だんだん変わっていったように思います。

2019年5月25、26日に開催された、藤原印刷初めての自社主催イベント「心刷展」ポスター。イベントでは、藤原印刷が心を込めて生み出してきた作品の展示と、一部販売が行われた

——経営理念の「心刷」という言葉は、おばあさまの言葉ですか?

そうです。心を込めて刷る。祖母のときは、著者の肉筆に編集者の赤字が入った生の原稿が版下(※)だったので、それが初めてタイピストのもとで活字になっていました。だから原稿のドラマを汲み取るように、一文字一文字大切に打つのが「心刷」だと。のちにその「一文字」が「一冊」に替わっていきました。

いま、僕らなりの「心刷」の解釈は、「印刷を通して誰かに喜んでもらう」ということです。印刷はゴールではなく、喜んでもらうための「ツール」。だから、「本当にそれで喜んでもらえるのか?」「印刷する必要があるのか?」を常に考えないといけない。印刷業なんだけど、印刷だけに関わらないように努めています。

※版下……印刷をおこなう元となる原版のこと

ずっと「東京に帰りたい」と思っていた

——後半は、そんな藤原印刷を継がれた隆充さんの、松本に対する思いを聞いていきたいなと思っています。ただ、隆充さんは松本に対してそんなに思い入れが……。


全然ないんです、全然好きじゃない(笑)

——だそうですね(笑)。だからこそ、今回お話が聞きたかったのですが。隆充さんは東京生まれ・東京育ち、就職先も東京だったとか。

はい。先ほども触れましたが、もともとはネットマーケティングのベンチャー企業に勤めていました。そこにインターンで弟が来て、初めて兄弟で仕事をしたんです。それがすごくいいなと弟は思ってくれたみたい。

——もともと、藤原印刷を継がねばという気持ちがあったんですか?

15歳のとき、祖母のお葬式に想像をはるかに超える人が来てくれたのを見たんですよ。ひとりの死に対してこんなに人が集まるってすごいなと感動して、「そんな祖母がつくった会社は、自分が継いで続けなくてはだめだ」って腹の底から思ったんですよね。でも、そんな中学生の覚悟なんてそれはもう柔らかいもので、いざ継ぐときになったら、うーん、ごにょごにょみたいな(笑)。

——(笑)。

「長男だからしかたないか」とも思ってはいたんだけど、いつ継ぐかがなかなか決められなかった。まだ東京にいたかったんですよ。松本に住むイメージがなかったんです

結局、僕が覚悟を決められないから、弟が決めてくれました。弟は「藤原印刷で働きたい」ってずっと言っていたんだけど、親は「長男が先だ」と言ってて。それで弟に説得されて、松本に引っ越したんですよね。「松本かぁ……」という感じで。

——隆充さんの場合、「松本に帰る」んじゃないですもんね。住んだことがないから。

そう。だからめちゃくちゃ嫌でしたね。できるなら行きたくないと思ってた。いつか東京に戻ってやろうとずっと思ってました。

——松本の第一印象はどうでしたか?

包み隠さず言うなら、「つまんねえ」ですね。だって友達もいないし、遊ぶ場所も、行く店もない。いまは素敵なお店ができているけれど、僕が帰ってきた12年前は何もなくて。休みの日にはTSUTAYAで漫画借りて、ひたすら読んでましたよ。それしかやることがなかったんです。

しかも、東京時代の仲間たちは、みんなベンチャー企業で幹部になったり、上場企業で役職を上げていったりしている。そんな中で、なんで自分は松本の工場で毎日インクにまみれてんのかなぁって。自分が選んだ道だけど、信じて突き進んでいるわけでもなかったから。だから、引っ越して数年は「もう無理かも」「東京帰りたい」って思ってましたね。

——その考えは途中で変わっていきましたか?

そうですね。少しずつ松本で知り合いが増えてきたり、行くお店が増えてきたり、仕事でも「仲間」だと思える社員が増えてきたりして……ちょっとずつ変わっていったように思います。

関係値を増やすことが、いちばん思い出につながる

——移住してきたときって、最初はみんな居場所ってないと思うんです。「精神的な更地」というか。

はい、はい。

——隆充さんに至っては、松本に対する思い入れがない状態で、どんなふうに居場所をつくっていったのかなっていうのが気になっていて。

ああ、なるほど。いやもう、最初は友達がいなかったから、ひとりで飲み歩いていたんですよ。こじんまりしていて、友達ができそうなお店を、情報誌で探しては行っていました。そこでのポイントが「短期間で連続して行く」ってことなんです。1週間に3回とかね。すると、向こうも顔を覚えてくれるじゃないですか。

——「あなた、おとといも来たよね?」ってなりますよね(笑)。

そうそう。「仕事何してるの?」とか、会話も生まれ始めるんですよね。そうするうちに店員さんと仲良くなって、ご飯行ったり人を紹介してもらったりして、「じゃあショップカードお願いできないかな」って仕事も頼まれたりするようになって。どんなに小さな仕事でも、印刷所なら自分でつくって納品できるからうれしかったですね。

——関係性が少しずつできていったんですね。

そうなんです。やっぱり知り合いがいないと、引きこもってしまうパターンって多いと思うんですよ。でも、引きこもったままだとその街を好きになれないし、そこでの生活が記憶に残らない。関係人口、関係値を増やすことが、いちばん思い出につながると思うんです

だからと言って、いい思い出ばかりでも街の記憶って残らない。僕がいた国立でも、当時付き合っていた子に振られたときに歩いた道とか、長電話していたスポットとかあるんですけど(笑)。ポジティブな思い出だけじゃなくて、ネガティブな思い出も残らないと、街に対する思いとか愛着ってわかないんじゃないかと思います。

そのためには自己のなかで完結してしまうんじゃなくて、誰かと関係をもって、付き合ったりぶつかったり、いろんな経験しないとなって。

——はい、はい。

だから「あいつ嫌いなんだよな」は、もっと思っていいと思う。大人ってうまく付き合おうとするけど、それだと「コト」が起きないから。

むしろ「あの人苦手なんだよね」を当たり前に話したほうが奥行きが出るんですよ。だから僕もこうして「松本が好きではない」と言ってる(笑)。それをよく思わない人もいると思うけど、気をつかって「松本大好き!」って言っても奥行きがないじゃないですか。

——確かに、ネガティブなこともさらけ出すと、関係性に立体感が生まれる気がしますね。

「そんなところも君だよね」って受け入れてくれる人もいて、「わかってくれてありがとう」みたいなね。関係性をつくるって、そういうことだと思うんですよね。

いま住んでいる街を好きになる必要は全然ない

——13年目にして、松本に対する気持ちは変わりましたか?

変わらないですね。東京じゃなくてもいいかなって思うようにはなったけど、松本である必要もないです(笑)。もちろん夜空や北アルプスがきれいとか、いいなと思うところもあるんだけど、ここにしかないものって別にない。

——じゃあ、いまも松本にい続ける理由って……?

ないですね。本社があるから。それしかない。

—— 一貫してますね(笑)。

さっきも言ったように、27年生きてきた国立にはたくさん思い出があるけれど、松本にはまだそんなに重みがないんです。

だけど自分が松本に来て、結婚して、これから家を建てて、いまは子どももふたり生まれて……これからいろんな葛藤や悩みを経て、初めて松本に意味を感じるようになるのかもしれないですね。

——いま、積み上げていっているところなのかもしれませんね。松本との関係値を。

そうですね。あと、もしかしたら僕は、0歳から20歳のときに過ごした場所に価値を感じているのかもしれません。たとえば、ほとんど行ったことがないけれど、大好きなばあちゃんが生まれ育った奈川村は好きなんです。同じ理由で、奥さんが住んでいた山梨の甲府も好き。大切な人が生まれ育った街を、僕は好きになるのかもしれません。

——じゃあもしかしたら、お子さんが生まれ育っていく街として、松本を好きになる可能性もあるかもしれないってことですね?

ああ、確かに。子どもたちが大人になったとき「松本はいい街だよね」と言われたら、好きになれるかもしれませんね。逆輸入みたいに(笑)。

——隆充さんにとっては、関係を深めることが街を好きになることにつながっていくんでしょうね。お話をうかがっていて、別にいま「この街が大好き!」と思えなくてもいいんだなって、逆に勇気づけられました(笑)。

そうですよ。好きになる必要なんて、全然ないです

僕は、住んでいる所を離れたときに、初めてその街のことを客観的に見られるようになると思っているんです。だから松本にいるときには、松本のよさってわからないんじゃないかな。引っ越したときに初めて、「松本ってこういう街だったな」と言えると思っています。

——そう思えるように、私もいま住んでいる街との関係を深めていきたいと思いました。ありがとうございました。

藤原印刷の歴史から、三代目、そして個人としての隆充さんの葛藤をうかがった、今回のインタビュー。最後に隆充さんからこんな言葉が出たのが印象的でした。

「印刷の仕事って、誰とでもつながれる仕事なんです」

老若男女、職業、地域問わず、誰とでもつながれる印刷業。「印刷を通して誰かに喜んでもらう」という藤原印刷のモットーは、言い換えれば「印刷を通せば誰とでもつながれる」、そんな可能性を秘めているということなのかもしれません。

そしてそれは、隆充さんが個人として実感してきた「関係値を増やすことが、思い出につながる」のだということともリンクしているように感じました。

好きになる必要なんて、全然ない。それよりもまず、関係性をつくること。

ポジティブもネガティブも経験した先に現れる「思い出」を、隆充さんはいま、松本でつくっているところなのでしょう。「居場所をつくる」って、まさにそのプロセスのことなのかもしれません。

取材・執筆:土門蘭
撮影:小林直博
編集:友光だんご