2022.06.24
信州に移住した偉人たち 50歳で江戸からUターン、52歳で初婚 俳人・小林一茶の生涯
「痩蛙(やせがえる)まけるな一茶ここにあり」「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」など、小動物や弱い者へのまなざしが優しい作品で知られる江戸時代の俳人・小林一茶は、長野県信濃町の柏原の出身。15歳で江戸へ出て、50歳で帰郷して所帯を持った、Uターン移住の経験者でもあります!
そんな一茶の生涯を、ライターの岩崎が、信濃町にある一茶記念館の学芸員、渡辺洋(ひろし)さんにお聞きしました。
継母との折り合いが悪く、15歳で江戸へ奉公へ
- 岩崎
- 渡辺さん、今日は信州にUターン移住した先輩としての一茶に迫るべく、お話をうかがいに来ました。
- 渡辺さん
- たしかに、一茶も信州へのUターン移住者の1人と言えますね(笑)。
一茶は1763(宝暦13)年、信州北部の柏原村(現・長野県信濃町柏原)の農家の長男として生まれました。数えで3歳の時に母親を亡くし、8歳の時に継母・はつ(さつ)を迎え、弟も生まれました。
一茶は継母との折り合いが悪く、14歳の頃、同居していた祖母が亡くなるとさらに関係は悪化。翌年父の提案で江戸へ奉公に出ることになってから50歳で帰郷して永住するまで、江戸や房総を主な活動場所としながら、諸国を旅していたのです。
- 岩崎
- 後に詠んだ「我と来て遊べや親のない雀」という句は幼少期の自分と重ねているようですね。
一茶が故郷を離れることになったのは、家の中に居場所がなくなってしまったからなのですね。
- 渡辺さん
- そうですね。当時、金銭的な理由で柏原から江戸へ奉公に出ることは珍しいことではなかったのですが、中農(家族が暮らしていくのに支障のない程度の収入のある農家)であった小林家は、一茶からの仕送りに期待する必要はなく、むしろ家を離れる一茶が自立して生活していけるように準備を整えたうえで江戸に送り出したのだと思います。
しかし、一茶の奉公生活は辛く厳しいものだったらしく、奉公先を転々と変えながら、20歳を過ぎた頃には俳句の道を目指すようになりました。青年期の一茶には、望郷の念を詠んだ句がいくつもあります。
遺産相続で弟と対立 故郷からは冷たい視線
- 岩崎
- 江戸と信州では、昔は今のように簡単に行き来はできなかったと思いますが、江戸へ出ていた一茶が初めて柏原に戻ったのはいつでしょうか。
- 渡辺さん
- 江戸へ出て14年後、29歳の時です。その後は、30歳から36歳まで西国・四国・九州方面を行脚しながら本を2冊も出版する活躍をして、39歳の時にふたたび柏原へ戻ったんです。
ただ、その帰省中に父親が発病してしまい、一茶も看病しましたが亡くなってしまったんです。父親は「小林家の資産の半分を一茶に分け与える」という遺言を残していたのですが、その遺産分配をめぐって継母・弟との対立が始まりました。それもあってか、この頃の一茶の句には故郷への不信と僻みがあふれています。
- 岩崎
- 父親を亡くしてからの、家族との対立。一茶にとっては辛い体験だったでしょうね……。
- 渡辺さん
- 弟は、一茶がいない間に小林家の田畑を2倍以上に広げたとされています。そうした勤勉な弟の姿を見ていた柏原の人々は、遺産分配に対して弟に同情的でした。当時「遊民」と認識されていた俳諧師の一茶には、地域の人々も冷たい視線を送っていたんです。
- 岩崎
- しかし、一茶が詠んだ「もたいなや昼寝して聞く田うえ歌」という句からは、田植えに参加せず昼寝をして田植え歌を聞くことを「もったいない」と感じる、農家の長男として健全な感覚がうかがえます。
- 渡辺さん
- 一茶自身は帰郷後もあまり農業はせず、田畑は人に任せていました。しかし農家の生まれである自分が1人だけ産業に従事していないことへの後ろめたさは常に抱えていたようで、この句の前書きとして「耕さずして喰(くひ)、織(おら)ずして着る体たらく、今迄(いままで)罰あたらぬもふしぎなり」と記しています。
江戸では人気の俳人に
- 岩崎
- なるほど。一方で、江戸では俳人としての一茶の評価は高まっていったんですよね。
- 渡辺さん
- はい。49歳の頃の俳人番付(俳諧師を相撲になぞらえてランキングしたもの)では、一茶は最上段の東の前頭五枚目に位置付けられるほど評価されています。
一茶が柏原へ永住のため帰郷したのは、50歳の冬。柏原で借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌年ようやく遺産を受け取ることができたのです。
- 岩崎
- このとき詠んだのが一茶の代表作のひとつ、「是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺」ですね。
- 渡辺さん
- そうです。一茶が江戸を引き払い、帰郷の決意を固めた時に詠んだ句です。雪深い奥信濃の厳しい自然に悪態をつきながらも、ここが最後に帰り着くべき場所なのだという、ふるさとへの深い愛着が感じられます。
- 岩崎
- 「是がまあ」は本来「やれやれ」というような意味なのでしょうけれど、一茶の満足感が伝わってきますね。
ただ、江戸では人気絶頂な一方、弟・継母と激しく争ってまで父の遺産を手に入れて、一茶が50歳でUターンした理由は何だったのでしょうか。
- 渡辺さん
- 俳人としての実力や人気はあっても、江戸では貧乏と隣り合わせの暮らしで、所帯も身寄りもなく、浮き草のような生活だったんです。一茶は江戸で俳諧師として大成したいという願望がある一方で、愛着のある故郷に帰って生活の安定を得たいという相反する気持ちを抱えていました。江戸の場末に一人暮らしをしている時期には、こんな句を読んでいました。
- 渡辺さん
- 最後の句は、冷たい木枯らしが吹く夕暮れ時、浪人が地べたに座って謡曲を披露し、物乞いをする哀れな姿を詠んだものですね。まるで、他人の家を俳諧を指導して巡り歩くことで生計を立てていた一茶の自画像のような句に感じられます。
最終的には、年齢による体力の衰え、老いを自覚するようになり、引退するような気持ちで故郷に帰って生活することを決めたのでしょう。帰郷を決めた時の句も残っています。
- 渡辺さん
- 「いざいなん〜」の句は、江戸では涼むことさえ難しい、つまりいつもごった返していてゆっくりできない場所だった、ということですね。
- 岩崎
- 現代にも通じるような言葉ですね。そして、帰郷するまでの生活を「四十九年のむだ歩き」とさえ言い切ってしまう一茶……。花鳥風月の世界から脱して、新たな表現へ向かおうとする決意の表れにも感じられますね。
帰郷後は安定した生活と家族を手に入れた
- 渡辺さん
- 実際、柏原へ帰郷してからの方が多くの門人に大切にされ、生活も安定し、幸せな俳人生活を送りました。柏原村内で文化に明るい名士の中村家が、俳諧師一茶の真価を理解し、村の中で一茶の後ろ盾となってくれました。それと、一茶は帰郷前から、近隣の村々に門人を増やしていて、帰郷後の準備を整えていたのです。
当時は信州でも俳諧が盛んになってきており、現在の長野市(長沼地区や善光寺の門前町など)や高井地方(中野市、山ノ内町、高山村、小布施町など)に、帰郷する前のかなり早い段階からたくさんの門人がいました。
- 岩崎
- 事前に知り合いをつくり、移住の準備がしっかりできていたんですね。
- 渡辺さん
- そういうことですね。帰郷して遺産を受け取った翌年、一茶は52歳で28歳の妻と初めての結婚をして、3男1女が生まれます。
- 岩崎
- 一茶のあふれる愛情が感じられる句ですね。
- 渡辺さん
- ところが、4人の子どもはみな幼くして亡くなってしまいました。さらには、一茶が61歳の時に妻も37歳の若さで亡くなってしまうのです。
- 岩崎
- また一人ぼっちになってしまったのですか……。
- 渡辺さん
- 一茶はめげずに、その後も2回結婚します。やはり、家族を持ちたかったのでしょうね。自身の病気や、最晩年には大火で家を失うなど、さまざまな苦難がありつつも、俳諧師としての一茶の活動が衰えることはありませんでした。65歳の時、大火で焼け残った土蔵で3人目の妻に看取られながら最期を迎えています。
- 渡辺さん
- これは大火で家が焼けてしまった後に詠んだ句です。大変な苦難にもかかわらず、一茶は最期までユーモアを全く失わず俳句を詠み続けました。
- 岩崎
- 家族を持って、生涯を終えるまで俳句の道を歩み続けることができたんですね。
取材を終えて
幼いころに母親を亡くし、若いうちにたった1人で江戸へ奉公に出され、江戸で俳諧師としての地位を築いても、故郷への思いを持ち続けた一茶。人生50年といわれた時代に、一茶が帰郷して生まれ変わろうとしたのは50歳の時でした。
ようやく手に入れた家族を次々に失い、大火で大切な生家までも失ってしまう一茶の生涯を知り、命のはかなさや失う悲しみを知る一茶だからこそ詠んだ、弱い者へのまなざしが胸に迫ってきます。
傍目には悲惨な人生を送った一茶ですが、懐深い故郷に帰り着き、生涯を終えるまで故郷の地で暮らし続けられたことへの幸福感はあったのだと信じたいです。
- 一茶記念館
- 〒389-1305
長野県上水内郡信濃町柏原2437-2
TEL:026(255)3741
http://www.issakinenkan.com/
開館期間
3月20日~11月30日(通常営業)
休館日 5,6,9,10月末日(土・日に当たる場合は翌月曜日)、年末年始
※冬季営業/12月1日〜3月19日の間も、平日のみ見学可能
開館時間
午前9:00~午後5:00
入館料
おとな<高校生以上>
500円(450円)
こども<小中学生>
300円(260円)
※( )内は20名以上の団体料金