2021.03.13
「ホントにやるの?」から熱狂へ。長野オリンピックを振り返る座談会
みなさんは長野オリンピックを知っていますか?
長野オリンピックとは、1998年2月から17日間にわたって長野市をメインに開かれた、20世紀最後の冬季五輪。1972年札幌オリンピック以来となる冬季五輪に、日本中はもちろん、地元である長野は大きな熱狂に包まれました。
大会をきっかけにスポーツ施設や道路といった地域のインフラの整備が進み、市民のオリンピックへの意識もじわりと前向きに変わったそうです。
オリンピックは、長野にさまざまな影響と恩恵をもたらしました。しかし、当時はやっと携帯電話が普及しはじめたころ。長野オリンピックのリアルな地元視点での情報は、現在のインターネット上にほとんど残っていません。
そこで、当時をよく知り、オーバーフィフティになった3人に「ナガノでオリンピックがあった価値」を語ってもらいました。
新型コロナウイルスの拡大で延期され、今夏に開催できるか注目されている東京オリンピックを考えるヒントにもなるはずです。
- 座談会登壇者
- 笠原亜希子
スポーツ用品大手ミズノ社員として1995〜98年にNAOC(長野オリンピック冬季競技大会組織委員会)に出向。その後、長野市に住み長野市民会館館長などを務めた。現在は出身地の金沢市に戻り、金沢星稜大学助教授(スポーツ社会学)。1969年生まれ。
元公務員
長野県内の某地方自治体からNAOCに出向し、大会期間中を含む4年間、運営に携わった。大会期間中は競技会場や市街地の様子をつぶさに見た。県内出身。
松井ミツヒロ
信濃毎日新聞社社員、SuuHaaの書き手の1人。五輪当時は長野本社報道部の遊軍記者で、国際交流の一校一国運動や学校教育分野、まちの様子などを取材した。長野市出身の1967年生まれ。
<司会>
徳谷柿次郎
株式会社Huuuu代表。全国47都道府県を行脚しながら編集している。大阪府出身の1982年生まれ。長野市に移住して3年目。
長野オリンピックとは?
1998年2月7日〜22日開催。7競技68種目を実施し、72の国と地域が参加した。開催市町村はメインの長野市のほか、山ノ内町、白馬村、軽井沢町、野沢温泉村。開催直前に北陸新幹線が東京から長野まで開通し、各競技施設と長野市の市街地を結ぶ幹線道も整備された。開・閉会式場は野球場として使われており、他施設はプールや体育館として利用。全体を運営したのは長野冬季オリンピック組織委員会で、略称は「NAOC」(ナオック)。県や関係市町村、スポンサーなどが人材を派遣した。
「ホントにやるの?」な空気を変えた、日本人選手の活躍
- 柿次郎
- 僕は当時大阪にいたので、長野オリンピックを実際に地元で経験した皆さんにいろいろ聞いていきたいと思います。まず、開会直前のまちの雰囲気はどうでしたか?
- 元公務員
- 「楽しみ!」というより「ホントにやるの?」という感じだったと思います。冬季オリンピックは、ウインタースポーツを好きな人にはたまらない存在。逆に、そうではない多くの人には実感がありませんでした。
- 松井
- ボクもそう思っていました。日本で開かれたオリンピックは1964年の東京と、72年の札幌だけ。「長野ぐらいの地方都市でできるのか」と心配していました。
- 柿次郎
- 市民レベルでは大歓迎!みたいな感じでもなかったんですね。まあ、実感が湧かない感じは今度の東京オリンピックでも同じかもしれません。
- 笠原
- 正直なところ、一般市民には最初は「迷惑だなあ」という感じもありました。それが大会がはじまってポジティブなほうへと変わっていきましたね。
- 松井
- 大きなきっかけとなったのは、日本選手のメダルです。大会4日目に清水宏保選手がスピードスケート男子500メートルで、5日目に女子モーグルで里谷多英選手がそれぞれ金メダルを取ってから、一気にまちが盛り上がりました。
- 元公務員
- 国際オリンピック委員会(IOC)もよく「開催国の選手が活躍すれば大会は盛り上がる」と言っていました。実際、その通りになりましたね。
- 笠原
- 長野より前の冬季オリンピックの日本選手は、ノルディック複合の荻原健司さん・次晴さんの兄弟や、フィギュアスケートの伊藤みどりさんたちが注目されるくらいでした。ですから、長野オリンピックは今に続く冬季スポーツ人気を高めるきっかけになりました。
- 柿次郎
- 浅田真央さんや羽生結弦さん人気も、長野オリンピックが源流にあると。長野で話を聞いていると、オリンピックを知る人からは「開催期間は、とんでもなく盛り上がった」「商店街を歩けば肩がぶつかりあうほど」と聞きます。
- 松井
- まちに世界中から人が集まりました。アメリカのニューヨークでも、日曜日の原宿・竹下通りでもこんなに混んでないだろというぐらい。長野駅前では外国人が大きな声を出してチケットを転売していました。
- 柿次郎
- そんな原宿の路上みたいな光景が、長野で!
- 松井
- とくに最大の人出だったと言われているのが、大会10日目のスキージャンプ団体で日本が金メダルを取った時の表彰式。善光寺にほど近いセントラルスクゥエアで夜に開かれたのですが、おしくらまんじゅう状態で会場にたどりつけませんでした。長野市で育ちましたが、あんな光景はその時だけでしたね。
- 元公務員
- 長野駅からセントラルスクゥエアまでが人であふれて大渋滞だったはず。
- 柿次郎
- 本当にすごかったんですね……。
飲食店も、市民生活も大変身
- 柿次郎
- 当時の飲食店、たとえば居酒屋はどうなってました?
- 笠原
- メニューをみんな外国人向けに変えてました。(五輪公用の)英語とフランス語を加えたり、ドイツ料理ならドイツ語を加えたり。
松井- それまで普通の居酒屋だったのに、パブ風やオープンカフェ風に突然変わっていたり。「本当に長野の光景なのか」と思いました。
- 柿次郎
- 市民生活への影響も大きかったんじゃないですか?
- 笠原
- 一般の車が通行規制されてましたね。
- 松井
- オリンピックに影響しないよう時差出勤が勧められ、マイカー出勤も控えるよう呼び掛けられていました。車で取材に行く場合、どのくらいかかるか読めないので朝の暗いうちに出発したこともありました。
- 元公務員
- 道路にオリンピック関係車両専用レーンもできていましたね。市民生活への影響はありましたが、それほど大きな問題にはなりませんでした。
- 松井
- 世界的なお祭りをやっているんだ、というポジティブな意識が市民に浸透していましたから。
- 笠原
- 学校も休みになっていましたよね。
- 松井
- そうですね。冬休みや小中学校にある「寒中休み」の日をずらして、大会期間中に設定していました。
- 柿次郎
- 県を挙げてのお祭りだ。まさにオリンピックが長野を変えたんですね……!
現場は大変! いまだから話せるトラブルとは
- 柿次郎
- 皆さんはそれぞれオリンピックの現場に立たれていたと思います。なにかトラブルはありましたか?
- 元公務員
- 僕は大会運営に関わっていたのですが、一番のトラブルは白馬への観客輸送で起きました。大会5日目でジャンプ競技のノーマルヒルがあり、警備の都合などで、長野駅から会場までが大渋滞になってしまって……。観客が乗ったバスが大幅に遅れてしまったんです。
- 松井
- 会場にようやく着いたら競技が終わっていたという観客の方もいましたね。
- 元公務員
- ぼくはその日、白馬にいたんです。だんだん状況がわかって、これはお客さんに怒られるなあと……。
- 柿次郎
- ひいい。もしも当時ツイッターがあったら?
- 松井
- 間違いなく炎上してますね。
- 笠原
- 私は組織委員会に出向していたのですが、パラリンピックでは日本選手のユニフォームを巡る問題があったことを思い出しました。
- 柿次郎
- ユニフォームを巡る問題とは…?
- 笠原
- オリンピックのユニフォームが事前発表されたとき、パラの選手から「私たちも着たい」という要望が出たんです。ユニフォームはミズノが作り、JOCとの契約上、オリンピック選手だけに提供することになっていました。でも、ミズノやJOCに「パラ選手にも着せてやって」と多数の電話があったんですね。今思えば炎上です。最終的に当時の橋本龍太郎首相の指示で、パラ選手も着ることになりました。
- 柿次郎
- 首相が動くほどの事態に!
- 元公務員
- もうひとつ思い出しました。当時、参加国ごとに関係者を招待してもてなす「ゲストハウス」が長野市内にいくつもあったんです。あるゲストハウスでは訪問者が盛り上がりすぎて、内部をめちゃくちゃにされちゃった。大会後しばらく営業できなかったそうです。
- 笠原
- 私も思い出しました。
- 柿次郎
- たくさんありますね(笑)。大会運営は大変だ……。
- 笠原
- 本当にいろいろありましたよ(笑)。開会前には、アルペンスキーの男子滑降でスタート地点をどこにするかというのが大きな問題になったんです。
- 柿次郎
- なんでそれが問題に?
- 松井
- スタート地点を高いところにするか低いところにするかで、NAOCと競技連盟が揉めたんです。
- 元公務員
- コース上部が自然公園法の「特別地域」に入るため、そこを滑るのはけしからんという話になったんですよね。NAOC案は特別地域より下の1680メートル地点だったのですが、それだと標高差とコースの長さで競技として成立しないと国際スキー連盟(FIS)側は主張しました。
- 柿次郎
- ああ〜。地元の自然保護と、競技の規則がぶつかってしまったと。
- 笠原
- NAOCは自然と共存する「環境五輪」をうたっていたので……。
- 元公務員
- 一時は1800メートル案も出たのですが、結局1765メートルで決着して、特別地域は「ジャンプするようにするからいいや」ということになりました。
- 松井
- 4年ぐらい揉めてましたね。結局双方の顔が立つ形で決着しました。
国主導の東京と、県主導の長野
- 柿次郎
- 開催中、地元住民の方も協力してくれたんでしょうか。
- 笠原
- 住民の方や地元企業が雪かきに協力してくれたり、ボランティア活動をしたりしてくれました。ただ、すこし心残りなこともあって。
- 柿次郎
- なにが心残りだったんですか?
- 笠原
- 協力してくれた企業が長野オリンピックのエンブレムのデザインと企業名を並べたいといっても、ルール上はダメなんです。そんな風に、オリンピックの規約ゆえに断る仕事も多くて、もっと寛容になれなかったのかと思うことがあります。オリンピックが地域の人々にちゃんと応えることができるようになればいいなと。
- 柿次郎
- その指摘は、今度の東京オリンピックで生かしたほうがいいかもしれませんね。
- 元公務員
- ただ、東京オリンピックは、長野大会とは規模が全然違うんです。同じイベントと捉えないほうがいい。国の事業の色が濃いのが東京大会。
- 柿次郎
- えっ! そうなんですか。すると、長野オリンピックは違ったんですか?
- 元公務員
- インフラ整備には国からも補助金は出ていたけれど、運営への関与はそれほどなかったです。どちらかというと県主導で。
- 松井
- 東京オリンピックの組織委員会は省庁の人が多いのかな?
- 笠原
- かなり入っています。
- 元公務員
- NAOCは文部科学省や自衛隊から数人ずつぐらい。長野オリンピックはかなり手づくり感がありました。
- 柿次郎
- 大会によってカラーが変わるんですね。
- 笠原
- そうですね。大会のカラーでいうと、長野オリンピックの3年前である95年に阪神大震災が起きています。いまならば復興支援をうたうのだろうけど、当時はそれほどではなかったんですね。
- 柿次郎
- なるほど……。
- 笠原
- その後、プロ野球のオリックスが「頑張ろう神戸」をスローガンにして、スポーツと復興が関連づけられるようになったように思います。東京オリンピックでは「コロナに打ち勝った証し」と言われるのかもしれませんが、長野オリンピックでそういういう雰囲気はありませんでした。
- 元公務員
- 長野にオリンピックをなぜ招致したかというと、やっぱりフル規格の新幹線が来てほしいという背景もあった気もします。
- 松井
- 隣県に比べてよくなかった道路事情を改善するカンフル剤として期待した人もいました。一方、純粋に国際的な大イベントを成功させたいという人もいたと思います。
オリンピックが経済と文化を底上げした
- 柿次郎
- オリンピックは経済効果もすさまじいと聞きます。なんでも、日本でバブル経済が弾けたのに気づかなかったという長野の人もいたとか。
- 元公務員
- バブル経済崩壊後もオリンピック関連の施設や道路の建設が進んで、北陸新幹線が開通しましたからね。
- 松井
- オリンピック前、長野県内だけは建設需要が大きくて、県外から多くの人が集まって経済を押し上げたんです。ただ、自治体の財政負担もそれなりに大きくて、オリンピックバブル後は大変になった面があります。
- 元公務員
- オリンピック関連需要がなくなった反動で、県内の実質経済成長率がマイナス成長に初めて転じたこともありましたね。
- 松井
- とはいえ長野県は、オリンピックの波及効果を4兆6800億円と推計しました。観客らの消費、施設や関連道路、新幹線の整備などを含めた初期投資額の2.8倍とはじいています。
- 柿次郎
- 2.8倍! すごいですね。経済だけでなく、住民の側に与えた影響も感じますか?
- 笠原
- 市民活動が盛んになったといえます。もともと公民館活動や社会教育が活発だったという下地に、オリンピックのボランティア活動が加速させた面がある。NPOも多くできましたし。
- 元公務員
- それはあるかも。「自分たちでやってしまえ」という機運が高まったよね。会期中に運営のボランティアだけじゃなくて、会場近くの自治会の人が観客たちに手づくりの豚汁を振る舞うこともありました。
- 松井
- そういう光景は結構ありましたよね。結果、世界的なお祭りを「成功できてしまった」という自信みたいな感覚が地域に広がりました。ナガノという名前も国際的に知られるようになったし。
- 柿次郎
- オリンピックが、地元にとっての成功体験になっている。
- 元公務員
- 小・中学校が参加国と交流を深めた「一校一国運動」も大きいと思います。知り合いの子どもは、運動をきっかけに紛争や災害に直面した海外の人たちを支援するNGOに就職しました。世界に目を向けるきっかけになったんじゃないかな。
- 松井
- 長野市を中心に一校一国運動は展開され、いまも交流を続けている学校があります。異なる文化に触れたり、平和を考えたりする力をはぐくむ取り組みで、長野以降のオリンピックに引き継がれていますね。
オリンピック文化とナガノ
- 柿次郎
- オリンピックを開いたことが、ある種、長野の文化の一部をつくっていると。
- 松井
- それは間違いないです。ただ、その経験値が徐々に薄れていて。いまの20〜30代の世代にも、もっと長野オリンピックのことを知ってほしいんですよね。
- 笠原
- でも、当時の盛り上がりは20世紀的と言えるのかも。長野オリンピックが開かれる1、2年前から市民の日常に「メディア」というものが入った印象があります。新聞記事に載ったり、ローカルテレビに取り上げられたりして、みんなが面白がって参加していくように私には見えたので。
- 柿次郎
- いまのタイミングで長野でオリンピックをやろうとしても、同じようにならないですよね。
- 笠原
- ならないでしょうね。
- 元公務員
- SNSがある影響が良くも悪くも大きいんじゃないかな。
- 柿次郎
- 東京オリンピックがどうなるか、ますます気になりますね……。最後に、今後は長野のこういう面を見てほしいとか、ポジティブなメッセージをぜひ!
- 松井
- 若い人々が長野を訪れて、オリンピックが開かれた痕跡をハード面もソフト面も探してもらいたいですね。見つけると楽しいですよ。
- 元公務員
- 逆に嫌な要素も見つかりますよ(笑)。
- 松井
- 負の遺産というか。それはまあ、清濁併せ飲む感じで……。
- 笠原
- 私はいま金沢に住んでいるんですけど、個人的にはすぐに長野に移住したいです。二十数年暮らしたけれど、青い空と食べ物のおいしさがある。海なし県と言われるけど、海なんていらない!
- 柿次郎
- じゃあ、元公務員さん、締めてください。オリンピックの経験値をどう生かしてますか。
- 元公務員
- 公務員に戻って、困ったことが起きても「大したことないじゃん」と思うようになりました。
- 松井
- 細かいことはどうでもいいじゃん、ということ?
- 元公務員
- いやいや長野の人は細かいですよ。どちらかと言うと……。
- 柿次郎
- その指摘が細かい! ここらへんで締めましょう。ありがとうございました!
おわりに
柿次郎さんは、全国各地の取材を通じて「長野市はすごく変なまちだ」と褒めています。
善光寺という長い歴史を持つシンボルがある一方、戦争被害が少なく昭和の色気がある建物が残る。さらに、かつてオリンピック施設だった「やたらと大きい」建造物もそこかしこにあります。
北陸新幹線や高速道網で首都圏から行き来しやすくなったことも、1998年の冬季オリンピックの遺産だと改めて確認しました。
開催から4半世紀が経とうとしていますが、冬季オリンピックは今も長野を形づくっています。
編集:友光だんご(Huuuu)