移住したくなったら

信州に移住した偉人たち83歳からの二拠点生活。浮世絵師、葛飾北斎の移住論。

信州に移住した偉人たち83歳からの二拠点生活。浮世絵師、葛飾北斎の移住論。

江戸時代後期に活躍した絵師で、世界で最も有名な日本人ともいわれる葛飾北斎。90年の生涯で83歳から89歳の間に4回、現在の長野県上高井郡小布施町に逗留しました。

最晩年になってからも、山を越え、谷を越え、江戸から240㎞も離れた小布施まで何度も通った理由とは。

偉大なる先人の「二拠点生活」の詳細を知るため、小布施町にある北斎館で学芸員を務める赤井沙羅さんにお聞きしました。

北斎館の学芸員、赤井沙羅さん

長野で二拠点生活を始めた理由

岩崎
今日はよろしくお願いします!赤井さん、北斎は最晩年、小布施と江戸で今でいう「二拠点生活」をしていたそうですね。
赤井さん
はい。江戸の家は残したまま、小布施に何度も通って創作活動をしていましたので、そういうことになりますね。

北斎は1842(天保13)年、数えで83歳の時、小布施の豪農商・高井鴻山(たかい こうざん)を訪ねて初めて小布施にやってきました。
岩崎
そもそも、なぜ小布施にやってきたのでしょうか? ぜいたくを禁止する天保の改革の影響で、娯楽である浮世絵も規制の対象となり、江戸での創作活動に息苦しさを感じたのでしょうか。
赤井さん
岩崎さん、お詳しいですね!はい、それも北斎が小布施へ来た理由のひとつでしょう。小布施は江戸幕府直轄の天領で、政治的にも安定し、描きたいものを描ける環境でした。

そして何より、鴻山の存在です。鴻山は豪農商である一方、絵画や書にも精通した文化人でした。江戸で遊学していた際に北斎と知り合ったと考えられ、突然訪ねてきた北斎を師と仰いで歓迎し、衣食住や資金の援助をしたんです。
岩崎
鴻山は北斎の弟子であり、支援者でもあったんですね。
赤井さん
鴻山と北斎は40歳以上の年の差がありましたが、「先生」「旦那さん」と呼び合うほど親密な関係を築いていました。

北斎が江戸に残してきた娘のお栄を心配すると、お栄も一緒に連れてくるようにすすめ、お栄と一緒に住めるように北斎用のアトリエとして「碧漪(へきい)軒」を用意したという話もあります。

毎日絵を描いていた!?北斎の二拠点生活の実態とは

岩崎
すごい歓待ぶり! 娘と一緒に迎え入れて、安心して作画活動に集中できる環境を整えてくれたんですね。そんな中、北斎はどんな生活を送っていたんでしょうか。
赤井さん
80歳を過ぎて浮世絵版画を離れ、肉筆画の分野でさらなる高みを目指していた北斎は、自分が思うままにさまざまな肉筆作品を描いたと伝わります。

毎朝、魔除けとして獅子の絵を描くことを日課にしていて、描き終わると丸めて軒下に捨てていて。それをお栄や弟子たちが拾い集めたおかげで200枚余が現存し、一部は明治時代に欧州へ渡っていますが、当館には10点が展示されています。
北斎館に展示されている「日新除魔」。北斎が日課として描いた
岩崎
拾ってくれていて良かった…!
赤井さん
碧漪軒には花壇があり、蛇も飼っていたと伝わります。北斎は庭にやってくる鳥や小動物、花木の観察やスケッチに余念がなかったという逸話も。ここでのスケッチが、後に江戸で発刊する絵手本「絵本色彩通」にも生きています。
岩崎
毎日絵筆を持って、絵師として精進の日々を過ごしていたんですね。
赤井さん
鴻山の書斎「翛然(ゆうぜん)楼」では、小布施周辺の文人たちが集まる「書画会」が開かれ、北斎も参加していました。村人からの絵の要望にも快く応じていたようで、小布施周辺の個人宅に所蔵されていた北斎の作品がたくさん見つかっています。
岩崎
江戸の高名な絵師が滞在しているとなれば、周りも放っておきませんよね。地域の人たちとの関わりも多かったんですね。

天井画から屋台まで。北斎が地域に残したものとは?

赤井さん
そうですね。象徴的なのが、この2台の祭屋台です。北斎が屋台の天井絵を手掛けています。
赤井さん
鴻山が私財を投じて制作した上町祭屋台の天井絵には、激しい波しぶきを上げる「男浪」と「女浪」が描かれています。
上町祭屋台の天井画、「男浪」(左)と「女浪」(右)
岩崎
轟音が聴こえてくるような勢いです!
赤井さん
両図の四方を取り囲む縁絵にも注目です。北斎の下絵に従って鴻山が着色したと言われているですよ。
岩崎
師弟合作なんですね! 縁絵の豊かな色彩が、波の色の深さを引き立てています!
赤井さん
さらに、この祭屋台の皇孫勝の飾り人形も北斎が立体作品として唯一プロデュースしたものと言われていて、数年かけてようやく完成した際、北斎は鴻山に「制作に関わった人たちと祝いに一杯やりたいのでよろしく」という内容の手紙を書いています。

元来気難しくて、お酒も飲まないといわれていた北斎ですが、よほど完成がうれしかったのでしょう。
上町祭屋台(左)の飾り人形・皇孫勝は北斎が生涯で唯一手掛けた立体作品
岩崎
屋台の制作を通して職人たちとも親交を深め、楽しくお酒を囲む様子が目に浮かびます。

町内にある岩松院の天井画、八方睨み鳳凰図も肉筆画の傑作として有名ですが、この作品も鴻山が依頼したんですか? 小学校の遠足で見に行って、すごい迫力だったのを覚えています。
八方睨み鳳凰図
赤井さん
岩松院は高井家の菩提寺で、北斎は鴻山のつながりで天井絵を手がけました。畳21枚分もの大きさで、中国から輸入した鉱石を用いた150両の岩絵具、金箔4400枚を使った超大作です。北斎が亡くなる前年に完成し、170年以上たった現在まで塗り直すこともなく、光沢と極彩色の美しさを放っています。
岩崎
鴻山が北斎に託した思いの大きさですね。肉筆画の集大成ともいえる壮大さです。絵画は散逸しやすいけれど、祭屋台やお寺の天井絵なら地域に残る。鴻山はここ小布施に北斎の絵を残したかったんですね。
赤井さん
そうですね。北斎の作品の中には海外に渡ったものも多くありますが、2台の祭屋台と岩松院の天井絵は今も小布施に残り、北斎の創作の地であることが町のアイデンティティーになっていますから。
岩崎
北斎にとっても、小布施は創作意欲をかきたてられる場所だったんですね。
赤井さん
北斎は小布施での制作の合間に、たびたび江戸へ戻り、江戸での仕事もこなしていました。
江戸にいる間に出版の仕事の段取りをつけて、再び小布施での制作に向き合うため、信州への道を何度も歩いたんです。小布施にはそれだけ北斎を惹き付ける魅力があったんですね。
岩崎
北斎の小布施での生活が生き生きと感じられました。鴻山と語り合った翛然楼へも行ってみようと思います。

今日はありがとうございました!
小布施へ来た頃の画号は「画狂老人卍」。北斎は75歳の時、自身について「七十歳以前に描いたものは、実に取るに足りないものばかり」と評し、「八十歳でますます向上し、九十歳になればその奥義を極めて、百歳でまさに神妙の域を超える」と記しています

取材を終えて

風景版画「冨嶽三十六景」を大ヒットさせ、誰もが知る一流画家としての地位を築いていた北斎。彼がより自由に描ける環境を求めてか、小布施の豪商・高井鴻山を頼って江戸を出たのは83歳の秋でした。

北斎を師と仰いで温かく迎え、支援を惜しまない鴻山の存在、彼による大作の依頼ーー。北斎にとって小布施は、江戸から遠く離れ、安心して創作に没頭できる別天地でした。だからこそ、江戸と小布施の厳しい旅路に何度も杖をついたのでしょう。90歳でさらなる奥義を極めんとする北斎は思うままに筆をふるい、小布施にその足跡を残しました。

北斎館
住所:
長野県上高井郡小布施町小布施485
開館時間
午前9時~午後5時 (最終入館は午後4時半まで)
休館日:
12月31日(臨時休館あり)
入館料:
一般1000円、高校生500円、小中学生300円、小学生未満無料
電話:
026-247-5206
HP:
https://hokusai-kan.com/

撮影:小林直博
編集:飯田光平