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「血と地」の経営論──老舗家業を継いだ30代経営者たちが語る、自分のルーツに向き合う生存術

「血と地」の経営論──老舗家業を継いだ30代経営者たちが語る、自分のルーツに向き合う生存術

長野には、長い歴史を持つ企業がたくさんあります。2代目、3代目…….と事業を受け継いだ人たちは、前代が築いた伝統を守る責任と、新たな時代に適応して企業を変化させていく知恵が求められます。

いま東京だけでなく、地方でもベンチャー企業が増え、「新しい会社をつくる」ハードルはどんどん下がっています。そんな中、長野県で「家業を継ぐ」選択をした、30代の経営者たちが鼎談。

ともに老舗企業を継いだ3人ですが、背景はバラバラです。ファシリテーターの藤原隆充さんは、祖母が創業した松本市の印刷会社「藤原印刷」で専務取締役を担当。登壇者の矢島義拡さんは、長野県白樺湖でリゾート「池の平ホテル」を27歳で事業継承して経営。また宮坂勝彦さんは、日本酒「真澄」の蔵元の後継ぎとして新商品の企画開発に取り組んでいます。

「日本酒」と「観光」は全く異なる業界ですが、鼎談のなかで同じような課題が見えてきます。それは「東京で売れる」トレンドを真似していくうちに、商品から土地固有の魅力が失われること。

この「模倣主義」の弊害に、宮坂さんと矢島さんは海外経験などから自業界を「相対化」することで気づき、長野の「地」の利を活かした対策を考えてきたそうです。

また、鼎談のなかで立ち上がったのは「血」の制約、すなわち「自分を活かすために家業があるのか、家業を存続させるために自分がいるのか」という問いです。宮坂さんは「家業は自分がやりたいことの延長線上に存在する」と語る一方で、矢島さんは「会社は公であり、自分はそこに適応させていく存在だ」と自らの個性を抑制します。

生まれた瞬間から否応なく存在する、家業という「血」の制約と、長野の風土に根ざした「地」の利。それらをいかに自らの人生に取り込み、前進する力に変えていくのか。

「新しいこと」が賞賛される一方、歴史や伝統、「地方にいること」が足枷だと捉えられかねない世の中で、自らのルーツに徹底的に向き合い、そこから生まれたストーリーを戦略に変える経営者たちの知恵に迫ります。

参加者プロフィール*写真右から
藤原隆充(藤原印刷株式会社 専務取締役)
1981年生まれ。東京都国立市生まれ。横浜市立大学卒業後コンサルティング会社、インターネット広告のベンチャー企業を経て2008年に家業である藤原印刷へ入社。企画段階から仕様の提案を得意とし、あらゆる方へ本づくりそのものを全面的にサポートする。印刷屋の本屋(2018)、工場を開放した体験型イベント「心刷祭」(2019)、など様々なサービスを立ち上げる。共著に『本を贈る』(三輪舎 2018年)。二児の父。趣味は読書、知らない土地に行くこと、人の思考を構造化すること。

宮坂勝彦(宮坂醸造株式会社 社長室 室長)
1985年生まれ。長野県諏訪市にて育ち、大学進学に伴い上京。2009年に慶應義塾大学 総合政策学部を卒業後、三越伊勢丹へ入社。2011年 家業である宮坂醸造株式会社へ入社し、清酒製造の現場を学んだのち、米国と英国における真澄の販売代理店 World Sake Importsにて研修。帰国後は社長室室長として商品企画やマーケティングを担当。趣味は音楽、本、旅と食べ歩き。

矢島義拡(株式会社池の平ホテル&リゾーツ 代表取締役社長)
1983年、長野県白樺湖生まれ。中学時代から鹿児島で寮生活を過ごし、東京大学法学部卒業後、株式会社リクルートに入社。シェアハウスに住みながら、新宿歌舞伎町と静岡県で採用の法人営業に従事。2008年に家業である現在の会社に入り、2011年に当時27歳で事業を継承し現在に至る。趣味は旅とお酒。最近はアウトドア(焚火、テントサウナ、Ebikeなど)。息子2人娘1人。現実的な事業の積み重ねの先に、​​訪れて良し住んで良しの100年越しの村づくりを目指している。

*本記事は、2/11に開催された長野県主催のイベント「シシコツコツ」内のトークセッションを記事化したものです。

歴史ある企業を背負う重圧

藤原
本日はよろしくお願いします。ファシリテーターを務めさせていただく、藤原印刷株式会社の藤原です。本日のゲストの一人目は、白樺湖で1955年創業の老舗ホテルを運営する、池の平ホテル&リゾーツ代表の矢島義拡さんです。
矢島
よろしくお願いします。長野県の真ん中ぐらい、標高1500mの白樺湖のほとりで、ホテルと小さな遊園地、冬はスキー場などの施設を運営しながらリゾート地をつくっています。会社の規模は従業員約300人ほどです。
藤原
「池の平ホテル〜♪」のCMでお馴染みですね。聴きすぎて私はもう洗脳されてます……。ちなみに、子どもからは「プリキュアルーム」や「仮面ライダールーム」が大人気で、私も息子に「連れてってよ!」とよくおねだりされます(笑)。
矢島
おかげさまで、CMをよく覚えていただいています。洗脳ではないですよ(笑)。
藤原
それぐらい、白樺湖=白樺リゾートのイメージは定着してますよね。
(矢島さん 提供)
矢島
実は「白樺湖」の名付け親は、創業者である私の祖父なんですよ。もともと農業用につくられた人工の溜め池に「白樺湖」と命名し、観光地として売り始めて。
藤原
え! おじいさんが白樺湖の名前を?
矢島
そうなんです。戦後の食料難のとき、電気もガスも水道もない土地に開拓者が50人ほど入って、酪農や農業を始めたのが会社の始まりなんですね。その時に、「川の水が冷たすぎるから」という理由で、一度水を溜め、水温を上げるための溜め池もつくられた。

でも、環境が過酷すぎて、祖父は物々交換で飢えをしのぐ生活を送っていたんです。ところがある日、登山客が訪れて「お金を払うから泊めてほしい」と提案された。そこから宿泊業が少しづつスタートし、「白樺湖」に名前を変えて観光地化が進んだんです。
藤原
まさに開拓の歴史だ。結局、白樺湖は1990年代をピークに観光で栄えたから良かったですよね。なにより「白樺湖」って、いい名前ですし。
(矢島さん 提供)
矢島
いや、それが駄目なんですよ。当時、ため池をつくった人たちからすれば、「自分たちが苦労して開墾した地を、好き勝手しやがって」と思っていたはずなんです。だから私はその罪を背負っているし、この地をちゃんと良くして禊をする、ケジメをつけるべきだと思っている
藤原
矢島さんは家業とともに、お祖父さんが人生をかけて残した「白樺湖」の歴史も受け継いでいらっしゃると。かなり使命感を持たれてますね。

さっそくいい話が出てきましたが、ここで一旦、もう一人の登壇者をご紹介させていただきます。日本酒「真澄」の酒蔵である、宮坂醸造株式会社の宮坂勝彦さんです。長野で「真澄」といえば、まさにTHE・諏訪な会社ですが、どれぐらいの歴史があるんですか?
宮坂
宮坂醸造は今年で創業360周年になりまして、創業以来、一貫して諏訪でお酒を造っています。諏訪には「諏訪大社」という大変古い歴史を持つ神社がありまして、この神社にある「真澄の鏡」という青銅鏡が名前の由来です。また1662年の創業以来、諏訪大社にお酒を献上してお神酒として使っていただいた歴史があります。
藤原
360年の歴史を背負うのはすごいプレッシャーですよね。生まれた時から後継ぎになることは決まっていたんですか?
宮坂
いえ、継いだのは私の選択です。ただ、大変失礼ながら、小さな頃は「諏訪なんて田舎だし、早く外に出たい」と思ってたんです。実際、高校時代には海外への憧れが募って、1年間アメリカに留学しています。その後、東京の大学に進学し、就職してから家業を継ぐために諏訪へ戻りました。
藤原
どのタイミングで家業に興味を持ったんですか?
宮坂
1年間のアメリカ留学中です。私がステイしたホストファミリーでは、子どもたちが好きなタイミングで、冷凍ピザやハンバーグを温めて食べる生活を送っていた。その食文化が衝撃的だったんです。

諏訪の実家では、いつも時間になったら家族で食卓を囲み、大人はお酒を飲んで、子供はご飯を食べながら談笑していました。でも、それは普通のことではなく、日本特有の食文化だったんです。アメリカでのカルチャーショックを経て、日本の食卓や、そこに密接に関わる日本酒に興味を持ち始めた。
藤原
「アメリカ最高」みたいに、西洋文化に影響されちゃうパターンはよく聞くんですけど、逆だったんですね。
宮坂
日本いいじゃん!ってなりました。ただ正直、諏訪に帰ってくるまでは「真澄」の歴史や認知度はよくわかってなくて(笑)。日本に1200軒の酒蔵が存在するうち、ただのワンオブゼムだと思っていたんです。
(宮坂さん 提供)
宮坂
最近、ようやく「真澄」を背負う意味を少しづつ理解しはじめました。でも私の場合、自分がやりたいことの延長線上に家業を継ぐことが存在しているため、あまりプレッシャーは感じてないかもしれないですね。

業界の「模倣主義」に対抗する

藤原
宮坂さんは家業へ戻って働きはじめた時、まずどんなことを感じましたか?
宮坂
2013年の私が入社した当時、日本酒業界が「模倣主義」に染まりつつあると感じていました。つまり、流行を追って他社と似たような「売れるモノ」をつくる姿勢です。

私は大学卒業後、都内の百貨店で2年間働いて、婦人服のフロアを担当していたんです。そこでファッション業界における「ブランド」の面白さを知りました。時代によって移り変わる流行の中で、確立されたブランドは自分たちの哲学や美学を持ち、自らのスタイルを堅持しつづける。その姿がカッコいいなと思っていたんですね。
藤原
なるほど。ファッション業界における「確立されたブランド」の姿勢や哲学を学んでから日本酒業界に来てみたら、日本酒の没個性化が進んでいたと。
宮坂
そうなんです。2010年前半は、日本酒の消費量低下にともない、全国の酒蔵が地元である地方の市場だけでは経営の限界を感じていた時期でした。だから、みんなが競うように東京のマーケットで勝負をはじめる潮流が来ていたんです。その結果、どの酒蔵も土地固有の味わいを捨てて、「東京で売れる」味わいを追求しはじめた。

これは真澄も例外ではなく、「今はこれが売れている」「次にこんな味をつくればいい」と他社メーカーの動向や酒販店の意見を聞きながら、「売れるお酒」をつくろうとしていた。ファッションの世界でブランドの大切さを痛感していた私は、「長い目でみるとブランドが確立されないじゃないか」と危機感を感じていました。
藤原
これは矢島さんにお聞きしたいのですが、この模倣主義の話は、全国各地にリゾートホテルが乱立しはじめた時代と通じる部分がありますよね?
矢島
まさにおっしゃる通りで、観光業も同じです。要するに、どの地域に行っても、似たような温泉旅館やリゾートホテルが建ち並びはじめたんです。それはマーケティング視点で、画一的な「観光客が求めるような体験」をパッケージ化して、一斉に提供していたからだと思うんですよね。

あとは酒蔵と酒販店の関係のように、私たちも旅行代理店から「こんな売れる体験を提供してほしい」と強い要望を受けていた。だから、模倣主義に染まっていましたね。
藤原
宮坂さんは違う業界、百貨店の婦人服ブランドの哲学から模倣主義に気づいたとおっしゃられていましたが、矢島さんはどのようなきっかけで?
矢島
祖父に連れられて毎年1回、世界のリゾート地に2人で旅をしていたんです。世界各地でさまざまな体験をして、日本に帰ってくると、「どこの観光地に行っても同じものが並んでるな」と感じるようになりましたね。
藤原
お祖父さんからの帝王学だったのかもしれませんね。おふたりとも自分の業界、もしくは自分の住んでいる国以外を知り、「相対化」することで模倣主義に気づき、対抗策を考えはじめたと。
宮坂
ただし、日本酒の場合は、模倣主義の時代が終わりを告げるターニングポイントがあったんです。それが、いまや誰もが知る日本酒「獺祭」さんの登場です。

獺祭さんは本当に美味しいお酒です。なぜかというと、山田錦という最高級のお米を使い、極限まで磨き上げてつくったお酒だからです。ある意味どのメーカーも、それが最高の方法だとは分かっていました。つまり、獺祭さんはお酒のスペックを極限まで高めて、それに特化した。獺祭さんの登場によって、模倣主義、言い換えれば「スペック至上主義」のゲームは終わったんです。
藤原
行き着くところまで行った、ということですね。
宮坂
模倣主義というひとつの時代は終わった。であれば、次にどちらの方向に行こうかと考えた時にヒントになったのが、イギリスで日本酒を販売するために試行錯誤した経験でした。

「地」と風土への原点回帰

藤原
なるほど。詳しく聞かせて欲しいです。
宮坂
ワインを中心としたヨーロッパの食文化では、食事のペアリングが非常に大切にされています。「うちのレストランのメニューは肉が特徴だから、このお酒を合わせる」「うちはお魚に力を入れているから、このお酒が食事に合う」ということを、レストランで働く全員が理解して、お客様に伝えて楽しんでいただくのが仕事なんですね。

だからイギリスで日本酒を売る際、私も理解した上で説明しなければいけないんですが、日本酒ではなかなか難しかったんです。
藤原
もしかして、日本酒にはペアリングの概念がないとか?
宮坂
そうなんです。ワインと比較すると、日本酒はある程度何にでも合いますし、「美味しいブランドのお酒を飲めればいい」という発想が根強いからですね。だから、初めて「真澄は何とペアリングすべきか?」を徹底的に考え始めたんです。

そこで、お寿司屋さんにお酒を30本ほど持ち込んで、ひとつひとつの寿司ネタに合うお酒を選ぶ研究を始めました。すると、傾向が見えてきたんです。ひとつは、石川県や宮城県など、海に近い酒蔵のほうがお寿司に合うということ。そして、うちの真澄が一番合ったのは、途中で出てきた「たくあん」だったんです。
藤原
めちゃめちゃ面白いじゃないですか(笑)。
宮坂
やっぱりうちは山の酒なんだなと思いましたね……。私たち長野県の人が普段食べているものを美味しいと思って、それに合うお酒をつくってるわけですから、考えてみれば当たり前ですよね。

でも、これは真澄のスタイルを追求する上での大きなヒントです。世界中の食文化を見渡しても、寿司のように生魚を食べる文化はほとんど無い。ヨーロッパでも、内陸部ではチーズや生ハムを食べてるわけです。ということは、真澄は山の酒を極めれば、そこに活路があるかもしれない、と
藤原
矢島さんは「長野の酒は、山の幸に合う」って気づかれてましたか?
矢島
いやあ、知りませんでした……。さっそく宮坂さんには池の平ホテルまで来ていただいて、ウチの漬物で全部試していただきたいですね(笑)。
宮坂
お酒をたくさん持っていきますね(笑)。内陸の食文化をもっと極めて発信していきたいと思っていますし、それが真澄らしさを地域と一緒につくることだと思っています。ぜひぜひ。
藤原
おふたりの話の中では、結構な割合で「住んでいる土地」が、自分が考えている方向性に影響を与えていると思うんです。特に観光業界では、地域の価値がそのまま観光的な価値になりますよね?
矢島
おっしゃる通りです。わたしが家業を継ぐ時に疑問を持っていたのは、「所有と経営の分離」です。土地や会社を持つオーナーと、そこの経営者を別々にすることで、合理的に経営していく。それは正論なんですが、一方で、観光業はそれでいいのかなと疑問だったんです。というのも、スイスのツェルマットで強烈な体験をしまして。
(矢島さん 提供)
矢島
ツェルマットは300年ぐらいの歴史の村なんですが、5つの家が中心となってブルガーゲマインデという組織をつくり、100〜200年スパンで村の品質管理をしているんです。例えば「まだスターバックスは入っちゃいかん」みたいな判断をして、それが資産価値を上げる役割をしている。一方で、きちんと先端的なマーケティングをやっている部署もあるんです。
藤原
マーケティングはもちろん必要だけど、その土地にとって長期的な観点から見た善し悪しを主張する人間も観光業にとって必要じゃないか、ということですね。
矢島
はい。中長期的な視点を持つ『地主』的な機能を担えるかどうかが、その地域や観光地の競争力になりうるはず。ある程度長いスパンで判断できる人が観光地域づくりをやるべき、とツェルマットでの体験を機に考えるようになりましたね。
矢島
あと、ちゃんと白樺湖は生活感のあるエリアにしていきたいと思ってるんです。大きな資本でつくられたリゾート地は、基本的にあんまり生活感や住民感がない。結局そういった場所が、数十年後に廃れている姿をバブル崩壊からずっと見てるんです。だから、根っこのない地域は絶対にアウト。人の営みが続く地域になっていかないと、観光業も成り立っていかない切迫感があります。

その一環として、今は「白樺村」をつくって住民を増やしたいと考えています。「湖畔のリゾート」という外向きのブランディングに対して、そこで根を張る住人たち自身が豊かな生活を送れる「村」をつくっていくことが、次に私が担うミッションですね。
宮坂
面白いですね。真澄も、長野県諏訪市でしかできないモノづくりを頑なに続けて、そのストーリーを発信していく経営にこだわりたいと思っています。近年、日本酒でも「どこでも同じような味わいができるなら、一番安く効率よくお酒をつくる方法が経営的には正解じゃないか」と議論されています。

しかし、我々は、地域にずっと根を張って、人件費が上がろうがマーケットが離れようが、モノづくりを続ける。そこで生まれる魅力が真澄のスタイルだと思いますね。

個を活かすために家業があるのか、家業を存続させるために個があるのか

藤原
ここまで「地」に誇りを持ち、自社の価値を高める経営について語ってもらいました。でも、家業を持って生まれた私たちは「どんな事業をするか」を選べないじゃないですか。私も印刷会社だから継いだわけじゃなくて、「血がそうさせた」という理由が強いです。

業界が選べないことを、ネガティブにとるか、ポジティブにとるかは跡継ぎの人それぞれだと思います。私にとって、自分の存在より、会社という存在のほうが大きい。つまり、自分という存在は会社を次の世代へ繋げていくための媒介であると言えます。

だから、重要度が高い会社のほうに、自分がアジャストして適合していかなければならない。自分の自我は抑えて、「藤原印刷」という会社の個性・人格・性格をトレースしていく……そういうやり方で7〜8年ぐらい過ごしていました。おふたりはどうでしょうか?
宮坂
私は、自分の個性を活かすために家業と向き合えています。というのも、お酒の消費量が減ったことで、量ではなく質が求められる時代になっています。だから、私のような蔵元の人間が、その思想や美学を詰め込んだお酒を出すことが増えていて、なおかつそのお酒が売れてるんです。

たとえば、私は「真澄らしさをもう一度取り戻す」酒造りに挑戦しています。日本酒は酵母によって味が大きく変わるのですが、その時代ごとにトレンドの酵母があるんです。そして、真澄もここ30年ほど、トレンドに合わせた酵母を使っていた。

しかし、じつは1946年に真澄の蔵で発見された、真澄発祥の酵母があるんです。この酵母は、日本で7番目に発見されたため「七号酵母」と呼ばれており、私はこの酵母に「内陸の食文化を体現する」高いポテンシャルを感じました。
(宮坂さん 提供)
宮坂
そこで、私は七号酵母への原点回帰を決断したんです。当然、社内からは反対の声が多数挙がりました。「そんな酵母は時代遅れだし、トレンドに合わないから売れなくなる」と。しかし、先ほどのファッションの文脈やイギリスでの経験から、自分たち真澄を真澄たらしめる哲学を表現するためにはこれしかないと思いました。

酵母だけでなく、まだまだ私にはやりたいことがあります。でも、会社は自分だけのものじゃない。だから「これ以上、アクセルを踏むべきか」を非常に悩んでます。ここから先は、どう社内から理解を得て、みんなで進んでいくことができるかが難しくて。
矢島
私は完全に逆ですね。会社は公であり、先ほど藤原さんがおっしゃったように、私はそこにアジャストしていく存在なんですよ。私は会社を継ぐタイミングで、「個を出す」ということを完全に遮断した。もし個を出したいのであれば、自分で起業するべきだと思ってますし、なにより私は自分の個性を出すことが苦手だと思ったんですよね。

もしかすると、私は「公と個の境界線がなくなる」過程を目指しているのかもしれません。最終的な理想は、私と住民の意思が完全に一致し、このエリアの公の意思にもなること。自分の感覚が地域と一緒になるように、自分が馴染んでいくよう調整している感覚がありますね。だから、宮坂さんのやり方はすごく強いと思うし、尊敬します。
宮坂
いえいえ、私はたぶん矢島さんのやり方はできない。すごく尊敬します。
藤原
それもひとつの「アジャストできる」という個性かもしれないですよね。じゃあ、最後に壮大なテーマを質問してもいいですか。 会社を継ぐということは、自分にとって何ですか?
矢島
ここまでお話したように、私はもう会社であり、この白樺湖というエリアに同質化していくイメージなんですよね。私物化ではもちろんなくて。
藤原
先ほど村づくりの話もされていましたけど、矢島さんの行き着く先は「村長」じゃないですか?
矢島
村長というより、仙人になりたいですね。
藤原
いいですね(笑)。宮坂さんはいかがでしょうか?
宮坂
難しい質問ですが、この家に、この立場で、この人間として生まれたことは選べないですよね。周りから羨ましがられたり、疎まれることもありますが、たった一度の人生でここに生まれた景色を楽しんでみたいと思ってるんです。

真澄の息子だからこそ見えてきたものを還元していって、「この地域に真澄があってよかった」と思ってもらえる形で、次の世代にバトンタッチしていきたいですね。
矢島
私の祖父が亡くなるとき、最後に「基礎を造ったでな」と言ったんです。それがすごく嬉しくて。「ここまでやったぞ!」ではなくて、「(自分の代で)基礎はつくれた」と言われて、それを引き継げたことはやっぱり幸せだなと思います。
藤原
自分の事業と地域の関係性を改めてよく考える、いい時間が過ごせたと思います。おふたりともありがとうございました。

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撮影:タケバハルナ
編集:友光だんご